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歴史探訪 鎌田三之助の命日 元禄潜穴~明治潜穴 [歴史]

今日は,草鞋村長こと鎌田三之助の命日です。
小学校4年生の社会科で勉強しますので,宮城県人なら鎌田三之助を知らない人はいないでしょう。
下の娘を連れて,久しぶりの歴史探訪に行ってきました。

まずは,江戸時代に作られた元禄潜穴です。
(回った順番通りではありませんが,時代の流れに合わせて書き込みます)

まずは,元禄潜穴の穴頭です。

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品井沼の水をここから松島湾に流しています。
元禄潜穴の穴尻は,明治時代の東宮殿下(大正天皇)がお召し列車で1分間停車した鉄橋の近くです。
少し,時代が飛びますが,東宮殿下(大正天皇)のお言葉により,明治潜穴の工事が順調に進んだと言われています。

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穴尻は,草が多い茂っていて撮影することが出来ませんでした。
そこで,大昔スマホで撮影した画像を↓

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元禄潜穴は,ひたすらトンネルを掘ったのではなく,所々にずりだし穴と言われるものを設けて掘り進めました。

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元禄潜穴は,ちょっと怖い言い伝えがあります。
潜穴の工事に携わった人夫の給料が払えなくなり,困った人夫頭が,その穴で宴会を開いて酔わせ,そこに水を流して殺してしまったという話があります。
その時,宴会に呼ばれた16歳の「おまん」と言う娘も一緒に犠牲になり,近くの隧道に今でも化けて出るとか・・・
そんなわけで,おまんの魂を癒すためにおまん地蔵というものが祭られています。

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続いて,鎌田三之助が携わった明治潜穴に。
穴頭と穴尻です。

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穴頭の付近は公園になっており,そこの建物には東京駅と同じように雄勝硯が使われています。

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鎌田三之助のことを詳しく紹介している施設があります。
鎌田三之助ホールの展示室です。
入場料は大人200円,子供100円です。小学生はどこでもパスポートなどがあると無料です。

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ここは,明治潜穴のミニチュアや映像等で詳しく説明してくれます。
施設の人と話すと「GWはだれも来ないんだよねぇ」と言っていました。
実際,展示室にいたのは私たちだけでしたw

最後に,吉田川と鶴田川が立体交差するサイフォンを見て帰路につきました。

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この川(吉田川)の下を鶴田川が流れています。

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地元の歴史に詳しくなった一日でした。

歴史探訪 阿弖流爲~藤原経清~奥州藤原氏 [歴史]

今日は、早起きして岩手県奥州市に歴史探訪に出掛けました。
まず、最初に目指したところは、奥州市埋蔵文化財調査センターです。
ここは、胆沢城発掘により出土されたものが展示されています。

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「古代東北蝦夷の世界」と題して30分ほどの映像を上映してくれます。
宇漢迷宇屈波宇が俘囚から真の蝦夷と戻るところから、阿弖流爲と母礼が河内で処刑されるところまでの流れを簡単に説明しています。
かなりの脚色はあると思われますが、理解するだけなら十分です。

残念だったことは、館内は撮影できたのですが、撮影したものはネット上に公開できないことです。
と言うわけで、建物の外観以外はご容赦ください^^;

奥州市埋蔵文化財調査センターのすぐそばに、胆沢城跡があります。

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案内板があり、土がやや盛り上がっていますが、当時のものかどうかは判断できません。

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※ パノラマで撮ってみました。

その後、巣伏の戦いが行われた付近に行ってみました。
巣伏の戦いは、紀古佐美率いる朝廷軍5万が、阿弖流爲率いる蝦夷軍千数百によって撃退させられる前代未聞の戦いです。

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高楼があったので、上ってみました。

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北上川や水沢の平野がよく見えます。

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ですが、眼下を見下ろすと・・・

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田んぼアートをやっていましたw
毎年、やっているようですので、興味のある方はどうぞ。

その後、えさし藤原の郷へと向かいました。
ここは、何度か来ているので、さらっと見て終わりです^^;

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そして、さらに、豊田館跡に行きました。
ここは、藤原経清が住んでいた場所と言われています。

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さらに、藤原経清の墓と言われる五井塚に向かいました。

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そして最後は、巣伏の戦いで蝦夷が朝廷軍を迎え撃った地(対岸:江刺)に向かい、本日の歴史探訪は終了です。

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一日にこれだけ回ると、結構大変ですね。
でも、紫波城まで行きたかったです・・・

白河の関 [歴史]

高校野球も明日が決勝ですね。
今年も、結局東北勢は敗れてしまいました。
高校野球では、優勝旗の「白河の関」越えと言って、長い間白河から北の都道府県が優勝していませんでしたが、近年、白河を遙か超えて北海道まで行ってしまいましたねw

さてさて、では、「白河の関」とはいったい何なのでしょう?

今日は、法要があり白河まで行ってきました。
そのついでに、白河の関跡を見てきました。

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※ 駐車場の脇に案内板があります。

白河の関とは、何かと言いますと・・・

wikipediaより引用
白河の関(しらかわのせき)は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。
引用終わり

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でも、ちょっと違うのです。
関と言っても関所ではなく、城柵のようなものだったと考えられています。
ここは、朝廷の蝦夷北伐のための前線基地だったのです。
蝦夷の南下を食い止める為とも言われていますが、朝廷が蝦夷を侵略しなければ戦は起きなかった訳で、このようなものも必要なかったと考えられます。

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白河の関の文献は少ないようで、あまり詳しいことは分かっておらず、いつできたのかさえも不明です。
しかし、平安時代初期には、寂れていたと言われています。なぜかというと、前線基地はさらに北にある多賀城や胆沢城に移っていたからです。そこまで朝廷の侵略が進んでいたのです。

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※ 土塁の内側です。ここに政庁があったのでしょうか?

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※ 寛政の改革で有名な松平定信が位置を特定したようです。
「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」←学びましたねw

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※ 隣の白河関の森公園から、白河の関を見ると・・・(丘の森です)

白河の関跡は、多賀城や伊治城のように推定復元模型や図があるわけでもなく、ちょっと残念でした。
しかし、安部貞任討伐のために多賀城に向かう源義家がこの場所で休んだり、奥州藤原氏討伐のために北に向かった梶原景季が歌を詠んだのかと思うと、なぜか不思議な気持ちになりますね。

多賀城跡 [歴史]

多賀城は724年大野東人が建設したとされています。
その後3度に渡り、造営や再建立されています。
蝦夷侵略のための前線基地として建てられれたものと考えられています。
(ネット上にたくさん情報がありますので、詳しいことは省略します。)

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駐車場にバイクを止めると、そばに案内板があります。
そこから南側には政庁跡があります。

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政庁跡をさらに南に向かうと、南門から政庁までの長い坂道です。
この坂を登り切ったところに政庁があります。
多くの古き強者共がこの坂を上り、政庁に向かったのでしょう。

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これは東門です。
柱の根本だけ復元されています。
この門を通って、塩竃や松島からの特産物を多くの人々が多賀城に運んだに違いありません。

今回はバイクだったことでカメラを持って行くことができずiPhoneのオモチャカメラでの撮影でした。
その上、暑くて長居できませんでした・・・^^;

伊治城跡 [歴史]

狩野英孝の実家を後にし、伊治城を目指しました。

番外編はこちら↓
http://jm7xzc.blog.so-net.ne.jp/2014-08-12

伊治は「いじ」または「これはり」と読む説がありますが、文献には読み方まで記載されていないのではっきりとしていません。

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伊治城は、767年鎮守府将軍田中多太麻呂が作ったとされています。8世紀中頃から9世紀にかけて、朝廷が東北の地を征しようと多賀城を建設し、蝦夷討伐の拠点を次々と建設していきます。この伊治城も桃生城と同様に建設されました。城と言うよりは柵というもので、政庁を中心とし、周囲に土塁や築地塀で囲んだものです。伊治城は東西700m、南北900mの大きさだったと言われています。
780年に、栗原郡の大領であった伊治公呰麻呂が覚鱉城建設の為の検分を行うため、陸奥国按察使の紀広純と牡鹿郡の大領道嶋大楯が伊治城を訪れた際に、二人を暗殺します。その後、多賀城の焼き討ちも行ったとされていますが、これはあくまで状況から推測されたものであり、実際には呰麻呂が行ったかどうかはわかりません。しかし、これにより朝廷は、蝦夷を侵略すべく征東将軍を次々と送り込むことになります。
征東大将軍紀古佐美の率いる朝廷軍が、巣伏の戦いで阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗したことをきっかけに、坂上田村麻呂が征東副将軍として、その後、天皇から節刀を賜り征夷大将軍として蝦夷侵略に乗り出すと、今までの蝦夷の勢力も勢いを弱め、田村麻呂は阿弖流為と母礼の降伏を受け入れます。
このような情勢の中で、伊治城は重要な役割を果たしたと言われてます。

伊治城跡発掘調査の様子が栗原市築館出土文化財管理センターに収めれています。

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※ 伊治城の政庁跡です。

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※ 調査の結果、政庁はこの画像の真ん中あたり(道路の部分)に建っていたと考えられています。

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※ 弩の存在が分かった日本で唯一の場所です。

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※ この地図で伊治城の位置が分かります。

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伊治城の土塁と大溝の周りには、こんなものもありました。
阿久利川事件のことについて書かれていました。

蝦夷からすると朝廷の行動は全て侵略であります。蝦夷が朝廷に対し悪さしたわけでもありません。勝てば官軍ですから、戦に勝った方が好き勝手できるのは仕方のないことです。しかし、教科書に載っている歴史をそのまま読み取ることは非常に危険です。
昔、昔、東京から首都を移動させるという話があったとき、仙台南部も候補に挙がっていたことがありました。その時に、当時のサントリーの社長佐治敬三氏がこう言っています。

「仙台遷都などアホなことを考えてる人がおるそうやけど、東北は熊襲の産地。 文化的程度も極めて低い」

現代においても、差別はあるんですよね。
まぁ、熊襲は九州で、東北は蝦夷ですけど^^;
もっと、勉強してから発言してほしいですねw

佐治敬三さん、まだご健在なのでしょうか?

櫻田山神社 狩野英孝の実家 [歴史]

今日は伊治城跡を見に行くべく、築館を目指しました。
国道4号線を北上していくうちに、以前櫻田山神社に行ったことを思い出し、伊治城跡の側でもあるので寄ってみることにしました。

伊治城跡探訪番外編の始まり~w

国道4号線から県道17号線に入り、栗駒桜田地域を目指して走ります。
そこから、細い脇道にはいると、櫻田山神社の大きな鳥居が見えてきます。

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駐車場に車を止め、表参道から境内に入ります。

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以前は、この神社でライブを行っていた狩野英孝の写真が祭ってあったのですが、今回はなくなっていました。
境内をぐるりと見渡すと何か違和感のあるものが・・・

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あの白いものは何だろう・・・と思って近づくと・・・

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ミヤギケンタウルス?
見たことのある3人の顔が祭られていますw

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宮城県出身のかの有名な3人は、栗駒の守り神となっていたのでした・・・w

と言うわけで、伊治城跡探訪番外編でした。


東北歴史博物館 ~昭和の家電~ [歴史]

今日は、午前中に職場に出向き論文の提出をした後、インプレッサを石巻のファクトリーシリウスに入院させてきました。
ブレーキの調子が悪く、キャリパー4カ所ともOHしてもらうことになりました。ついでにサイドブレーキのワイヤーも交換です。

午後は、東北歴史博物館に行ってきました。

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特別展で、昭和の家電をやっていました。
展示物は撮影禁止だったので撮影できませんでしたが、懐かしい家電製品をたくさん見ることができました。
9月28日までですので、おすすめです。
観覧料金は500円(大人)ですが、HPの割引券を使うと400円です。

http://www.thm.pref.miyagi.jp/

体験コーナーのみ撮影可能です。
畳にあがってもOKです。
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若かりし頃のさとう宗幸w
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常設展も閲覧可能です。
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阿弖流爲と藤原経清 [歴史]

東北地方の歴史を語る上で,この二人の存在を見過ごすわけにはいきません。
二人とも,奈良~平安時代を生き抜いた東北の英雄であることに変わりはないのです。

阿弖流爲は,奈良時代に朝廷から差し向けられた征夷大将軍である坂上田村麻呂と互角以上に戦い,東北を朝廷の支配から救おうとした,言わば救世主であるとも言えます。
また,藤原経清は安部氏から始まり,奥州藤原氏の栄華の基礎を築いた貢献者と言っても過言ではありません。
しかし,歴史とは複雑なもので「勝てば官軍」と言われるとおり,勝った者こそが正義なのです。さらに,朝廷から命令されれば,それが全て「大義名分」として通ってしまうことです。

これは,海外でも例外ではなく,西部開拓時代のインディアンの話やヨーロッパの十字軍にも言えることです。

私は,東北生まれの東北育ちであります。
どうしても,地元贔屓は致し方のないものです。(野球で言えば楽天のファンですしw)
よって,当時の朝廷から言わせれば,賊軍であると言えましょう。

しかし,賊軍だからといって,ただの賊軍と片付けて良いものでしょうか?

歴史には裏と表があります。
官軍だから,全て正義かというとそうではありません。
官軍でさえ,陰では人様に言えないような悪さもしていました。
まさしく,今の政治と同じです。

歴史は,どちらかというと官軍からの(学校の教科書のような)一方的な見方でしか見ていません。
そこを敢えて賊軍から歴史を見ると,面白さが倍増します。

学校で習ったことと違う!
そんな見方ができたら,最高ですよね。

名探偵コナンがこう言ってます。
「真実は一つ!」

もちろん,その通りです。
しかし,歴史には真実にたどり着くまでの経過がいくつもあり,そこまでの話がおもしろいのです。

表を見るか裏を見るか・・・
それは,歴史に限らず,今の政治にも言えることです。